脳神経外科医 井上靖章が、自分の医師としての原点を綴る連載をはじめます。最初の問いは、「なぜ、私は脳神経外科医になったのか」。連載「脳神経外科医 井上靖章 手記」第1回、この一つの問いから書きはじめます。
はじめに — 脳神経外科医 井上靖章として綴る、第1回
私は、最初から脳神経外科医を目指して一直線に走ってきた人間ではありません。それどころか、医学部に入った頃は、「医師なんて、しょうもない仕事だな」とすら思っていました。
そんな私が、今こうして脳神経外科医 井上靖章として手術場に立っています。患者さんの命と向き合っていられるのは、これまでの人生で出会ってきた、何人もの方々のおかげです。
2026年の今、医師になって13年が経ちました。節目を迎えて振り返ると、当時の出会いの一つひとつが持っていた意味の深さに、今になって気づかされる。そんなことが、本当にたくさんあります。
これは、私が「人との出会い」によって少しずつ脳神経外科医に作り変えられていった物語です。そして、今の私がそれをどう受け止めているかという、二重の手記でもあります。シリーズの最初の記事として、お付き合いいただけたら、嬉しい。
「医師は、しょうもない仕事」と思っていた京大医学生時代
私は、大阪府堺市の、ごくふつうの家庭で育ちました。父は穏やかな電気工事士、母は明るい大阪のおばちゃん。裕福ではありませんでしたが、温かい家庭でした。
中学受験で灘中学に進み、灘高校を経て、京都大学医学部に入学しました。子どもの頃から好奇心が強く、本当はロボットの研究をしたかった少年でした。けれども結局、関西圏の大学で、医学部の道を選びました。
ところが、いざ医学部に入ってみると、授業にまるで興味が持てなかったのです。試験は過去問通りに出るし、出席さえすれば単位がもらえる科目もある。私はすっかり、塾講師のアルバイトに夢中になりました。鉄緑会大阪校で、京大・阪大の医学部生と組んだチーム。気づけば、医学の勉強はほとんど後回しになっていきました。
「このまま医師になっても、自分はやりがいを感じられないんじゃないか」
別の大学に入り直すことすら、本気で考えていた時期もあります。
メイヨー・クリニックで受けた、二つの衝撃
転機は、大学4年生の時に訪れました。
「お前みたいなやつは、一回世界を見たほうがいい」
そう言って、京大のある教授が紹介してくださったのが、米国ミネソタ州のメイヨー・クリニックでした。世界最高峰の病院と呼ばれる場所です。私は3ヶ月間、得意だったプログラミングを活かして、整形外科のデータ解析を手伝うことになりました。
到着して、最初の衝撃は建物でした。
「クリニック」と聞いて、私は小さな診療所を勝手に想像していました。ところが目の前にあったのは、高級ホテルでも見たことがないほど、堂々として、誇り高さを纏った巨大な施設だったのです。
「なんじゃこれは。医療施設にここまで投資する文化があるのか」
患者さんが安心して身を委ねられる空間を、医療人たちが心から大切にしている。スタッフは誇りを持って働き、院内見学ツアーにまで熱がこもっている。同じアウトカムなら、見た目は良い方がいい。そんな当たり前のことが、当たり前に大切にされている世界が、ここにはありました。
そして、もっと大きな衝撃は、そこで働く医師たちの姿でした。
ドクター・アマディオ — 「権力を優しさに使う人」
「権力を優しさに使う」アメリカ医療の文化
メイヨーで出会った医師たちは、日本で見てきた医師像とまるで違っていました。立ち振る舞いは徹底してプロフェッショナル。職場のパワハラは、表に出ない。看護師さんや患者さんはもちろん、東洋から来た一介の学生にすら、「困っていないか? 手伝うぞ」と声をかけてくれるのです。
部門長クラスの先生たちは、ラボにふらっと現れては、レジデントや学生、研究員に声をかけていました。「休みはちゃんと取っているか」「週末は何をしているのか」「よかったらパーティーに来いよ」と。立場を笠に着るどころか、自分の影響力を、後輩への配慮にまっすぐ使っているのです。
「アメリカは、権力を優しさに使う」
その時、私はそう感じました。後にハーバードのブリガム・アンド・ウィメンズ病院でフェローとして働いた時も、同じ印象を強く持ちました。アメリカ医療の文化なのかもしれません。
アマディオ先生の道案内に、雷に打たれた
なかでも、忘れられない一人がいました。整形外科のドクター・アマディオです。
アマディオ先生は、いつも早口で、移動は早歩き。会議でだらだら話す人がいれば「結論から言え」と一喝する。それくらい、時間を大切にする人でした。
ある日、病院の廊下で、道に迷ってキョロキョロしている人がいました。アマディオ先生は、あたりまえのように足を止めた。そして「お困りですか?」と声をかけ、その方を目的地まで案内したのです。
あれだけ広い病院の中を案内するのは、簡単なことではありません。何分もかかる。多くの医師なら、目もくれずに通り過ぎたでしょう。けれどもアマディオ先生は、最後までにこやかに、紳士的に案内し続けていました。
その姿を見た時、私は雷に打たれたような感覚を覚えました。
「これが、医師というものなんだ。私もこういう医師になりたい」
「医師はしょうもない仕事」と思っていた私の中で、何かが確かに動き出した瞬間でした。
「第二の父」山﨑誠先生との出会い
USMLEと、塩むすびの8時間
メイヨーから帰国した私は、「アメリカで医師として働きたい」という野望を持つようになりました。米国の医師免許・USMLEに挑むため、京大の同級生と勉強会を立ち上げます。緊張すると食事が喉を通らなくなる体質なのに、塩むすびを片手に、8時間の試験を乗り切ったこともありました。
留学から帰ってハーバードに行くまでのほぼ10年間、移動中も、友人といるときも、私はずっと英語を勉強していました。今思えば、周囲には少し迷惑だったかもしれません。
研修先に選んだのは、千葉県柏市の名戸ヶ谷病院でした。東京の名門病院からのお誘いは、お断りしました。当時の私には「有名かどうか」よりも、「アメリカに行く道が開けるか」「茨の道を切り拓ける環境か」のほうが、はるかに大事だったのです。
どこに行くかではなく、何をするか。
平らな道を行くより、茨の道を切り開いて行くほうが、断然面白い。
これは今でも、私の人生の指針です。
第二の父と呼べる、山﨑先生の人柄
その病院の創設者・初代理事長だった故・山﨑誠先生は、その後、私にとって「第二の父」と呼ぶべき存在になりました。
山﨑先生は、医療に対して恐ろしくストイックで、職員からは恐れられていました。私自身、何度もカルテを投げつけられて叱られたことがあります。けれども、その叱責の裏には、いつも本物の愛情が宿っていました。
病院を一代で築き上げた創業者でしたが、私の前では、こんなふうに言ってくださったのです。
「足が悪くなって、臨床医として思うように動き回れない。今、俺にできることは、『俺が若かったら、こうしたいな』と思うことをしている若者を応援することだけなんだ。お前のような尖った若者に、俺の夢を託させてくれ」
「口は出さんが、応援は惜しまない」山﨑先生の流儀
USMLEの試験のために長期休暇がほしいと頼みに行った時のこと。山﨑先生は、詳しい事情を尋ねることもなく、二つ返事で「行ってこい」と背中を押してくださいました。そして私の挑戦に必要なものを、惜しみなく整えてくださったのです。
「口は出さんが、応援は惜しまん。井上が行きたいと言うなら、いつでも背中を押すからな」
これが、私に対する山﨑先生の流儀でした。
ありがたくて、涙が出ました。
今も妻と通う、山﨑先生のお墓
山﨑先生は、2018年に亡くなりました。私の渡米後の活躍を、直接お見せすることはできませんでした。それでも私は今も、茨城県にある先生のお墓へ、妻とよく通っています。
整形外科から脳神経外科医へ — 松澤先生の予言
当初は、整形外科医を目指していた
研修医として勤務を始めた当初、私が志望していたのは、脳神経外科ではなく整形外科でした。ロボット研究にいちばん近い分野だと考えたからです。メイヨーで携わったのも、整形外科のバイオメカニクスでした。
ところが現場の仕事は、ロボットとは程遠いものばかりで、どうしても興味が持てませんでした。
一方、脳神経外科の先生たちは、普段は脱力系なのに、救急の現場では別人のように動く。顕微鏡やカテーテルなど多彩な道具を駆使して、神秘の臓器に向き合っていました。そのチームワークと、生命に直結した責任の重さに、私はだんだん強く惹かれていったのです。
脳神経外科医を志した瞬間 — 松澤先生の「カッコいいから」
そのチームのトップが、当時の脳神経外科部長で副院長だった松澤和人先生(現院長)でした。
あるとき、私は松澤先生に「先生はなぜ脳神経外科を選ばれたのですか」と尋ねたことがあります。すると松澤先生は、笑いながらこう答えました。
「そりゃ、カッコいいからに決まってるだろう」
このあっけらかんとした答えそのものに、「カッコイイ!」と感激しました。私は迷いなく、脳神経外科へ進むことを決めたのです。
見学の日、すでに見抜かれていた
もう一つ、忘れられないやり取りがあります。病院見学に行った日、たまたま当直されていたのが松澤先生でした。雑談の中で、私が「整形外科を志望している」と伝えると、先生はこう言ったのです。
「どうせお前は、この病院に就職して、脳神経外科医になりたいと懇願してくる。その日を楽しみにしているよ」
なんて勝手な人だ、と当時の私は思いました。けれども、悔しいことに、松澤先生の予言は的中したのです。
今(2026年)、脳神経外科医 井上靖章が振り返って思うこと
メンターたちから受け取ったもの
ここまでお話ししてきた出会いは、すべて私が学生・研修医だった頃の話です。
その後も、私の医師人生は、たくさんの出会いに導かれてきました。札幌禎心会病院で出会った谷川緑野先生には、「迷ったら困難な道を」という哲学を教わりました。上山博康先生からは、「出る杭は打たれるというが、ハンマーが届かないところまで伸びていれば打たれることはない」という言葉をいただいた。ハーバード大学医学部ブリガム&ウィメンズ病院では、アフガニスタン難民から脳神経外科医・部門長となったサルタン先生の背中を、必死で追いかけました。
2026年、新しい挑戦の地・湖東記念病院へ
そして2026年の今、私は新しい挑戦のために、滋賀県の湖東記念病院へ移ろうとしています。脳神経外科主任部長の井上卓郎先生は、5年以上前から、私が深く尊敬してきた先輩医師です。昴会を創設された現会長・相馬俊臣先生。心から尊敬できる方々の理念に共感して、ここで新たな医療を実践していくつもりです。
きっとここでも、また新しい「出会い」が、私という医師をさらに作り変えていくのでしょう。
13年経って気づいた、価値観の地層
医師として歩み始めて13年。今になって、改めて見えてきたことがあります。
それは、「人との出会いが医師を作る」というのは、単なる言葉のあやではない、ということです。
確かに私は、自分の手で技術を磨き、自分の知識を積み重ねてきたつもりでした。けれども振り返ってみると、私の中で「これは譲れない」と感じる価値観の一つひとつには、必ず、誰かの顔が結びついているのです。
- アマディオ先生の「道案内」の姿は、私の中の「医師としての誠実さ」を作りました。
- 山﨑先生の「口は出さんが、応援は惜しまない」は、私の中の「信じて任せる勇気」を作りました。
- 松澤先生の「カッコいいから」は、私の中の「自分の心が動くものを選ぶ素直さ」を作りました。
- 谷川先生の「迷ったら困難な道を」は、私の中の「逃げない覚悟」を作りました。
- サルタン先生の「初めてのホーム、初めてのファミリー」は、私の中の「チームを大切にする心」を作りました。
湖東記念病院で再確認した「手術技術は裏切らない」
そして今、湖東記念病院で再び手術場に立つ機会を得ました。手術と患者さんに、純粋に集中できる時間。その中で、私は改めてこう感じています。
手術技術は、裏切らない。
地位も名誉もお金も、関係ない世界。
人は離れていくし、裏切りもある。けれども、手術技術はそこに完全に向き合えば、患者さんを救うことができる。
これは、脳神経外科医 井上靖章が13年かけて辿り着いた、医師としての原点です。
おわりに — 脳神経外科医 井上靖章から、患者さんへのメッセージ
私が脳神経外科医になったのは、子どもの頃に思い描いた夢を、一直線に追いかけてきた結果ではありません。
「医師はしょうもない仕事」とすら思っていた京大医学生がいました。その学生が、メイヨーでのアマディオ先生、千葉での山﨑誠先生、松澤先生、札幌の谷川先生・上山先生、ボストンのサルタン先生、そして湖東の井上卓郎先生・相馬俊臣先生という、たくさんの方々との出会いを重ねるうちに、少しずつ、しかし確かに作り変えられてきた。それが、今の脳神経外科医 井上靖章です。
このブログでは、その出会いの一つひとつと、そこから受け取ったものを、これから丁寧にお伝えしていきます。
そして、これを読んでくださっているあなたもまた、これから出会う医師によって、ご自身の物語を進めていく一人です。
手術を控えた、あなたへ
手術は、どれも怖いものです。なかでも脳の手術は、特別に怖い。それでも、最新の科学と技術、そして術者の知識・判断力・手技を総動員すれば、その怖さに立ち向かい、患者さんの病気を治すことができます。だからこそ私は、大きなやりがいを感じています。
これから手術を控えて不安を抱える患者さんに、もし「ひとつだけ伝えてほしい」と言われたら、私はこう答えます。
「私もあなたと同じ、一人の人間です。一緒に戦いましょう」
執刀医は、スーパースターでも神様でもありません。患者さんやご家族と同じ場所に立って、共に病と向き合う、一人の人間です。
脳神経外科医 井上靖章という医師が、あなたの物語の大切な一つの出会いになれたなら、これほど嬉しいことはありません。
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