「手術技術は裏切らない」。脳神経外科医 井上靖章が、シリーズ第1回の末尾に置いた一つの言葉です。今回はその本論を、連載「脳神経外科医 井上靖章 手記」第2回としてお話しします。湖東記念病院のオペ室で、私はある朝、この境地に辿り着きました。
はじめに — 「手術技術は裏切らない」と辿り着いた境地
第1回の最後に、私は「手術技術は裏切らない」という一つの言葉を、予告として置いておきました。
手術技術は、裏切らない。
地位も名誉もお金も、関係ない世界。
人は離れていくし、裏切りもある。けれども、手術技術はそこに完全に向き合えば、患者さんを救うことができる。
これは、脳神経外科医 井上靖章が13年かけて辿り着いた、医師としての原点です。
今回はこの言葉の本論として、どこで、どんな空気の中で、どうしてこの境地に至ったのか。それを丁寧にお話ししたいと思います。
私はこの境地に至るまでに、一度は「手術をやめようか」とまで考えていました。手術が怖い、と感じてしまった時期もあります。それでもある朝、滋賀県の湖東記念病院のオペ室で、私は不思議な感覚に包まれました。今日はその話から始めます。
湖東記念病院、朝9時のオペ室で
「アウェー」のはずだった、温かい歓迎
私が湖東記念病院の手術室に到着したのは、ある日の朝9時頃でした。
それまでに何度か訪れたことのある手術室だったので、病院の中の構造は理解していました。だから、誰に案内されるでもなく、病院到着後そのまま手術室に向かい、自分でオペ着に着替えました。
そしてオペ室に入った時、すごく印象的だったことがあります。その時に手術室にいた脳神経外科の井上卓郎先生、嶋先生、後藤先生、山岸先生だけではなく、麻酔科の先生方、看護師さんたち。みなさんがとても明るく迎え入れてくれて、声をかけてくれたのです。
私としては、やはり「部外者がお世話になっている、お邪魔しているような気持ち」でした。そんな気持ちで手術室に入ったことを、今も記憶しています。
手術室というのは、外科医、麻酔科医、看護師、技師にとって、とても神聖な場所です。患者さんだけでなく、医療従事者にとっても特別な場所。だからこそ、普段いない人間がお邪魔するときには、少しアウェーの空気を感じることが多いのです。
ところが、そんなことは全くありませんでした。むしろ自然と受け入れられやすいように、先生方や看護師さんたちが配慮してくれている。そのことを、私は強く感じました。
「これが、私の望んでいた仕事なんだ」
そういった温かい空気の中で、私はある気持ちが湧き上がってくるのを感じました。
「これが、私の望んでいた仕事なんだ」
実は、その時期の私は精神的にめいっていました。少し嫌な思いをすることが続いていて、ネガティブな気持ちになりやすい状態でした。
それまでの数ヶ月、辛いことが続いていた時期でした。だから手術中にも、集中が散漫になったり、手が震えたり、あるいは恐怖心を覚えたりすることがありました。
特にこういう「アウェーの手術」、つまり自分のホームではなく、他の先生方がホームとされている施設で手術をする場合。いつものベストパフォーマンスを出せないことは多いのです。いろんなことが気になって、集中力が十分に保てなかったり、緊張感で手が震えてしまったり。
ところが、不思議でした。
宇宙を漂うような、手術への没入
温かい空気感で受け入れていただいたおかげで、私は手術に集中することができました。それどころか、自分でも信じられないくらい手術に没入し、呼吸も整い、手も安定し、素晴らしいパフォーマンスの手術を引き出していただいたのです。
その時、手術中に私が感じた身体感覚を表現するとしたら、こうなります。
無意識の中で手術のみに集中して、他のことはもう何も考えなくてもいい。
宇宙の中を漂って、手術だけに夢中になって、気がついたら手術が進んでいって終わっている — そんな感覚でした。
辛いことが続いていたはずの私の中で、確かに何かが動き出した瞬間でした。「手術技術は裏切らない」。その出発点が、ここにありました。
「手術技術は裏切らない」とは、何を意味するのか
一度身につけた手術技術は、簡単には失われない
人間関係も組織も、いろいろなものは、ときに私たちを裏切ります。
しかし、一度つけた手術技術というのは、簡単に失われることがない。私はこの時、そのことを身体で実感しました。
それまで努力して身につけてきたものが、一瞬で奪われたり、崩壊したりする。そんな経験を、私は多くしてきました。「もう私は本当に全てを失った」「人間関係も人脈も、いろんなものを失った」と、なぜか悲観してしまっていたのです。
ところが、こうして無我夢中で手術をしていたら、気がついたら、— 自分で言うのも変な話ですが — 素晴らしいパフォーマンスで手術を終えていました。
何もかもを失ったと思っていた私に、この身につけてきた手術技術だけは、いつでも裏切らずに残っている。そのことを、深く実感したのです。「手術技術は裏切らない」。その時、心に刻まれた言葉でした。
患者さんを救う技術が、術者自身をも救う
そして素晴らしいことに、無我夢中で手術を完遂すること、いいパフォーマンスで手術をすること——それはそのまま、より患者さんに安全な手術ができることでもあります。
こうやって一度身につけた、患者さんを救うためのスキル。これはどんなに裏切りがあっても、どんなに辛いことがあっても、何かを失っても、私の元から決して離れていきません。とても大切な、職業のツールであり、ライフワークであり、医師としての基本です。
いろんなものを失ったと悲観的になっていた私にとって、この手術技術が絶対に私の元から離れていかないということは、心からの安心が得られた瞬間でした。
「手術技術と向き合えない」時期があった
信頼が崩れた時、医師は何を失うのか
ここで、もう少し率直に振り返らせてください。
信頼していた人たちから、とんでもない裏切りをされたとき。あるいは、仲間だと思っていた人から、後ろ指を刺され裏切られたとき。それに付随して、嫌な噂が立てられたとき。
私はとても悲観的になり、「もう自分には何も残っていないんじゃないか」と感じていました。自分が大切にしてきたものが失われていく、そんな感覚です。
一生懸命やってきたものが奪われたり、失われたり。その中で、少し自暴自棄になっていきました。「もうこんなプロセスやめてしまって、別の仕事に就いた方がいいんじゃないか」とすら、考えたこともあります。
手が震え、恐怖を覚えた夜
もう一つ、もっと深刻な話があります。
そうした不安定な精神状態では、手術中、本当に恐怖心を持つことになります。判断能力も落ちているのかもしれません。手も震えることがあるかもしれません。
そして、それよりも何よりも。手術そのものが、患者さんの命を懸けて、リスクを引き受けてやるものです。その重さを自分は引き受けられないんじゃないか。そう感じてしまうのです。
「自分にはもう、引き受けられないんじゃないか」
「もう自分は、この手術場にいてはいけないんじゃないか」
そんなふうに感じたりもしました。
私には手術しかないと思って、一生懸命やってきました。それなのに、自分にはもう手術ができないんじゃないか。そう感じた時、私は自分のキャリアに絶望し、「もうやめてしまった方がいいんじゃないか」と思いました。
あの揺らぎがあったから、今がある
「今でも、やめてよかったかもしれないと思う部分はありますか」と、自分自身に問いかけてみます。
今は、ありません。
こうして一度身につけることができた、患者さんを救うことができる知識や技術。これを使って社会貢献できるというのは、本当に素晴らしい仕事です。やめた方が良かった、と思うことはありません。
それどころか、あの揺らぎがあったからこそ今があると思える部分は、とても大きくあります。
一度全てを失って、もうこの仕事を辞めてもいいんじゃないかと思った自分。その自分が、身につけてきた手術という仕事によって、また精神的に救われました。
手術で患者さんを救うという仕事は、患者さんだけを救っているのではなかったのです。自分自身の社会的存在意義をも、救ってくれたのです。
そうした手術という大切な仕事だからこそ、今の自分にとっては、本当に手放すことのできない大切なものです。自分自身のレーゾンデートル、社会的価値、自尊心。そういったものを、揺るぎなくそこにたらしめてくれます。
だからこそ、改めて手術というものに真正面から向き合って、技術を高め、教育をし、患者さんを救っていきたい。そう思えるようになりました。以前からその思いは強かったのですが、今のほうがよりピュアに、純粋に手術技術を極めたいと思うようになっています。「手術技術は裏切らない」 — その確信が、今の私の支えです。
谷川緑野先生の教えと、「手術技術は裏切らない」の境地
私には、もう一つ、忘れられない言葉があります。札幌禎心会病院の脳神経外科で師事した、谷川緑野先生の教えです。
自分の家族を執刀できない技術で、人様を手術するな。
この言葉は、私の医師としての姿勢の、もっとも深いところに刻まれています。
自分の一番大切な人に提供できないような技術で、患者さんを手術するのは、不遜なことです。だって、患者さんもまた、誰かの大切な家族なのですから。
だからこそ私は、誰かの大切な人である患者さんを、自分の大切な人として手術をする、ということに、強い誇りを持ってきました。
そうやって思い入れのあった技術だからこそ、今回「手術技術は裏切らない」と思えたことで、すごく精神的に落ち着いてきた。私の中では、その流れがつながっています。
だから今でも、手術技術を常に高め続けて、自分の家族にその時が必要なのであれば、自分で執刀したいと思えるだけの技術を、常に高め、維持し、改良していきたいと考えています。
患者さんへの翻訳 — 「手術技術は裏切らない」があなたに意味すること
医師にもいろんな動機がある
ここまでは、脳神経外科医 井上靖章という一人の医師の、内面の話でした。これからは、これを読んでくださっている患者さんやそのご家族にとって、この境地が何を意味するのかを、お話しします。
手術というのは、医師によって、いろんな動機でやっているものだと思います。
例えば、仕事として必要だから。求められるから。自分しか手術をできる人はいないから。あるいは、純粋に職のため、生活のために。さらには自己表現のために手術をしている人もいるかもしれません。
もちろん、どれが正しい、間違っているということではありません。ただ、私はと言えば、自分を作ってくれてきたこの手術技術というものを、本当に患者さんのために提供することで、自分の存在意義を再確認できたのです。
だから今は、手術技術を、純粋に目の前の患者さんのために、最適なものを、最短コースで提供するということに、強いこだわりを持っています。
そうした技術への執着があるために、手術を諦めたり、「今日は早く帰りたいから、ちょっと集中が切れてきた」というようなことは、決してありません。
「自分の家族なら、誰に頼むのか」という問い
「ご自身の家族に手術が必要になったら、自分が執刀するのか、誰に頼むのか。その判断基準は何ですか」
これは、私が患者さんからもしばしば聞かれる、本質的な問いです。お答えします。
基本的に私は、自分自身が人様に提供している手術については、エゴイスティックな話ではなく、信念として「自分がベストの一人だ」と信じているからこそ提供しています。
もし、自分よりも優れた人がいると思える術式や領域であれば、そういった優れた先生を病院に招聘したり、あるいはその先生にご紹介して治療してもらっています。
裏を返せば、自分が患者さんに提供している手術については、もし自分の家族にその手術が必要になったとしても、まったく迷うことなく、自分で執刀したいと思っています。
これが、私からあなたにできる、最も誠実な約束です。
これからの13年で守る、「手術技術は裏切らない」という約束
維持と改良に、終わりはない
医師のキャリアを「trimesters」(三期)に分けると、私はちょうど 1st trimester(24〜37歳の蓄積期)を終えて、 2nd trimester(37〜50歳の挑戦期)に入ろうとしています。
この時期に、「手術技術は裏切らない」という原点を、どう守り、磨き、伝えていくのか。これからの13年で、私が自分に課す約束をお話しします。
手術技術というのは、ただ「維持しよう」とするだけでは、維持できません。常に高め、改良しようとすることで、やっと維持されるもの。私はそう思っています。
例えば、自分の年齢によって、判断力や手技の精度が変化してくるかもしれません。あるいはテクノロジーの進化によって、治療方法やデバイス、道具も変わってくるかもしれません。
そういった変化に敏感に、常に自分の手術技術をブラッシュアップしようとすること。それが、 2nd trimester で私がまず守りたいことです。
手の内を、若手にすべて伝える
そして同時に、そういった手術技術を、独占しないということ。
私の元に来てくれる若手や後輩、一緒に治療する仲間、質問をしてくれる人たちには、手の内を全て、包み隠さず伝えてしまいたいと思っています。
さらに、教育コンテンツを作成して、やる気のある脳外科医に、手術技術を体系的に支えるようなサービスも構築していきたいと考えています。
私を救ってくれたこの手術技術を、 2nd trimester においても、最も大事なものとして位置づける。これを高め、維持し、そして人に伝えることで、社会貢献していきたい。それが、これからの13年の中心にある決意です。
おわりに — 手術を控えた患者さんへの、私からのメッセージ
最後に、これを読んでくださっている方の中に、これから脳の手術を受けるかどうか迷っている方、あるいは大切なご家族の手術を控えている方がいらっしゃると思うので、その方へのメッセージを書かせてください。
私自身、自分の人生、自分自身のレーゾンデートル、自我、そういったものについてとても辛く感じる時期を経験しました。手術自体をやめた方がいいんじゃないかと思えるほど、手術が怖くなった時期すら、経験しています。
そんな私を、その後、素晴らしい仲間たちが、自分自身の自信や手術技術そのものまで、救ってくれました。
そういった経験を経た今、私は手術の怖さをもう一度、深く再確認しました。だからこそ、一緒にやる仲間や、技術を高めていくことの重要性を、改めて強く感じています。
私は、手術技術を、自分の家族にも提供できるクオリティで、これからも高め、維持していきたいと思っています。
だから、もしも私が手術で治療することができる病気を持ってしまった患者さんがいらっしゃるのであれば、私の元にいらっしゃるあなたには、安心して治療を受けていただけるように、最善の技術を提供したいと考えています。
手術技術は裏切らない。
これが、脳神経外科医 井上靖章からの約束です。
脳動脈瘤・脳神経外科のご相談はこちら
「自分の脳動脈瘤、手術すべきか迷っている」
「セカンドオピニオンを聞きたい」
脳神経外科医 井上靖章が直接お話を伺います。お気軽にご相談ください。